息継ぎ
- みりん
- 2022年6月10日
- 読了時間: 8分
息をするのも忘れて、と言う。
子供の頃、風呂に潜るのが好きだった。柔らかく包まれる感触。ゆるく差し込む浴室灯の光。ぼんやりと揺れる視界。耳の中では膜を張ったような音がして、世界から隔絶されたような、ここではないどこかにいるような、そんな気持ちになった。
手を伸ばせば簡単に届く、すぐ傍にある非日常。好きだった。文字通り息をするのも忘れて、じっと水中に身を潜めた。当然溺れた。
「潜るなとは言わんが、息継ぎをしろ!」
説教に次ぐ説教。だってだってと泣く俺に、兄貴がため息交じりにそう言った。
「……いきつぎ?」
「……あのな、人間は息をせんと死ぬんじゃ」
「なんで?」
「そういうふうに出来とるからじゃ」
「でも魚は死なないじゃん」
「そりゃ魚だからじゃ」
「……?」
「……とにかく、人間は息をせんと死ぬんじゃ。お前だって死にたくはないじゃろ?」
「うん」
「じゃあ息継ぎをしろ、息継ぎ」
「いきつぎ」
そんな会話をした。息継ぎ。息を吸うこと。普段は当たり前にやっている事だから、意識したことなんてなかった。
ためしに息を止めてみた。風呂場以外でやるのは初めての事。普通に苦しかった。兄貴にはアホと言われて殴られた。反省した。
なるほど、人間は息をしないと死んでしまうらしい。それが、子供のころに得た知見。
寝食を忘れて、と言う。人間は寝ないと死ぬ。食べなければ死ぬ。やらなければならない事が多く、面倒だなと思う。
日に二度か三度の食事。その度に用意して、食べて洗って(あるいは捨てて)とあまりにも面倒だ。
その時間があれば、睡眠も含めその時間があれば、もっともっと働けるのに。次から次に吸血鬼は湧いて出るから、退治して退治して、困っている人を助けて、もっと予定を詰め込めるのに。そう思った。その時は、そう思っていた。
しかし価値観とは変わるもので、あれだけ億劫だった食事が今は楽しみになっている。
本来それを必要としないあいつが、俺とジョンの為に作る料理。毎日毎日楽しみだった。俺とジョンが美味い美味いと食べる様を見て、満足そうに目を細めるあいつ。食べることが好きになった。食事の時間が好きになった。
睡眠についてもだ。まれに、ごくまれにだが、明け方近くになるとあいつがベッドに潜り込んで来る。
初めは驚きのあまり殺した。どういうつもりだてめーと熱くなる顔を隠しながら殴った。するとあいつは珍しく口ごもって、いやあちょっと肌寒くて、なんて斜め下を見ながら言う。それ以上は、聞けなかった。聞いてはいけないという気がした。
以来、時折ベッドに潜り込んでくるあいつを、俺は拒否できないままでいる。俺に気づかれないように静かに入ってくるあいつを、寝返りをうつ振りをしてそっと抱く。するとあいつはびくりと身体を震わせて、やがて安心したように寝息を立て始める。
あんなに冷たいのに。あんなに青白いのに。しっかりと息をして、俺の腕の中であいつは生きている。すうすうと呼吸音。ことことと心音。聞こえているのだろうか。気づいているのだろうか。俺が起きていることに。
あいつはきっと気づいている。けれど目が覚めると、あいつは棺桶に戻っていて、顔を合わせても平然としている。だからずっと、聞けずじまい。
なあ、お前は何がしたいんだよ。どういうつもりなんだよ。もうすぐ夏だぞ。肌寒いなんて嘘じゃんか。なあ。なあ。
毎晩ベッドに入る度に、今日は来るのかどうだろうか、なんて柄にもなくそわそわする。クリスマスイブの夜みたいに、毎晩毎晩心音が鳴る。ことこと。ことこと。いつの間にか、夜が楽しみになっていた。
楽しみ? どうして? 夜が、ドラ公と寝るのが? ドラ公と飯を食うのが? ドラ公と、ドラ公の、ドラ公――
答えなどとっくのとうに出ていたが、俺はあえて見ない振りをし続ける。ドラ公があの日、俺から目を逸らしたのと同じように。
***
「暇なら水を換えて欲しいのだが……」
ぼんやりと天井を眺める俺に、キンデメがごぼごぼと言った。
事務所は休業。ドラ公とジョンはオータムの企画だか何だかで、一週間ほど家を空けている。三日で戻ると聞いていたのだが、何やら難航しているらしく一向に帰ってくる気配がない。
つまらない。何もやる気になれない。やるべき事は山ほどあるのだが、身体がそれを拒否している。今日はいつもより重力が強い。身体がベッドによく沈む。だから仕方ない。仕方がないのだ。
「おい、聞いているのか……」
「聞いてはいる。暇ではない」
「では動いたらどうだ……ここ数日ずっとその調子だが……」
「なんもやる気しねえ」
「食事ぐらいしたらどうだ」
「食うもんねーし」
「ぐぶぶ……愚かで怠惰な人間め……」
毒づくキンデメに何か言い返してやろうと思って、のろのろと上半身を起こす。見ると、なるほど水槽のガラス面には茶色い苔が生え始めていた。
「しゃーねえなあ……」
立ち上がって、水換えのためのセットを取りに行く。最後に換えたのはいつだったか。
通常、水槽の水は週に一度は換水しなければならない。けれどキンデメは通常の魚ではないので、こうやって言われた時だけ水を換えている。
まずは水換え用のポンプを水槽に差し込み、水を二分の一程度抜く。古い水は捨てて、バケツに新しい水を汲んでくる。熱湯を入れた袋をそこに浮かべ、水温を上げる。水槽の水と同じ温度になったら、そこにカルキ抜きやら苔抑制剤やらミネラルバランスやらを入れ、かき混ぜて完成。あとはこれを、そっと水槽に注ぐだけ。
「……前から思っていたのだが、いやに手際が良いな」
「あー、俺昔カメ飼ってたから」
「ほう」
「……カメはいいよなーって、ずーっと思ってたんだよなぁ」
「何がだ?」
「あ、いやキンデメもだけどさ、ずっと水の中いられるじゃん。息継ぎしなくていいし。自由でいいなーって思ってた」
そう言うと、キンデメは考え込むように黙り込んだ。
「……お主の言う事はいまいちよくわからんが、カメも息はしているぞ」
「えっ」
「当然吾輩もしているぞ」
「えっ」
「えっとは何だえっとは。生き物なのだから当然だろう」
「え、でもカメ水の中にずっといるじゃん」
「時々鼻を出して息継ぎをしている」
「えっマジ?」
「なんなら皮膚呼吸もしている」
「え、カメすご。キンデメは? どうやって息してんの?」
「エラ呼吸を知らんのか。水中の酸素を吸っている」
「水中に……酸素……?」
「ほらこの、お前が入れたロカガールとかいうこれ」
そう言って、キンデメが水槽の中にある白い箱を指し示す。投げ込み式の濾過装置。よくわからないが水を綺麗にしてくれるらしい。
「この先からぽこぽこと空気が出ているだろう。この酸素が水に溶ける。吾輩はそれを口から吸って、酸素を取り入れ、エラから水を排出している。……わかるか?」
「わかんねえ……」
「そうか……」
するとキンデメはお手上げとばかりに黙り込んでしまった。俺もなんとなく沈黙する。時計を見る。21時。ドラ公は帰って来ない。
「……なんかさ、やらないといけないことが多いのって、嫌じゃね?」
「……どういうことだ?」
「息しないと死ぬし。飯食わないと死ぬし。寝ないと死ぬし。なんかさ、そういうのって自由じゃないっつーか」
「……生き物なのだから当然だろう」
「まあそうなんだけどさ……」
「……」
「……だから魚とかカメはそれが一つ少なくていいなって。息しなくていいから、その分一つ自由で羨ましいなって、ずっと思ってた。まあ勘違いだった訳だけど」
「……」
「……おれ、年々不自由になってる」
飯を食って睡眠をとって。ただの生命維持のための作業だったそれが、今ではすっかり生活に根付いている。食わなくて済むならそれでいい、と昔は思っていたのに、今では逆だ。腹が減ってなくても食べたい。あいつの作った飯なら。
時間を割きたい。あいつといる時間になら。あいつと眠る夜になら。しかしそれってなんだか、自由じゃない、ような。
すると、それまで黙っていたキンデメが、不意に口を開いた。
「……お主が気づいているかは知らんが」
「なに?」
「同胞のいない日は、やけによく喋るな」
「な」
「寂しいのか?」
「んな訳」
「食べる物がないと言ったが、では買いに行けばいいだけの話だろう。同胞の料理以外受け付けない身体になったのか?」
「べ、別にそういう訳じゃ」
「……不自由になったと言うが、それは悪いことではないと思うが」
「なんだ、それ」
「わからないか」
「わかんねえ」
「……なら仕方ない」
そう言うと、今度こそキンデメは黙り込んでしまった。
悪いことではない、わけがない。昔の俺なら平気だった。家に誰もいなくても。一人で食う飯も一人で寝る夜も。ただ面倒だっただけ。
それなのに、だ。あいつが全部変えてしまった。あいつがいない、たったそれだけで全てを奪われたような感覚になる。虚しい。つまらない。退屈。上手く言い表せられない。苦しい、に近いだろうか。息が詰まる。生き苦しい。
ドラ公は、まだ帰ってこない。時計の針は進まない。
「……なんかそれだと、俺あいつのこと」
と、扉がガチャリと開く音がした。反射的に振り返る。
「いやー、思ったより大変だったよ」
「ただいま、ロナルド君」
「なんかやつれてない? ちゃんとご飯食べてた?」
「……ロナルド君?」
無意識に、青白く冷たい手を握った。ああ、ああ、ああ。お前が視界に入った瞬間、思った。お前の手を握った瞬間、思った。
息継ぎ、だ。
「ロナルド君ってば」
お前は俺から自由を奪っていく。俺の中に、どんどんお前が入り込んで来る。人間は、寝ないと死ぬ。食べなければ死ぬ。息を吸わなければ死ぬ。そこに、お前が入ってしまった。
「……おれ、死ぬところだったんだぞ」
「は? なんで? 餓死?」
「ちげーよ! いや違くないけど、ちげーよ」
「じゃあ何……寂しくて?」
「さび、し! ……」
「え、なに、なんで黙るの?」
「……」
「え、ロナルド君?」
「さび、し、かった……!」
ああ、俺は今どんな顔をしているのだろう。いや、想像したら負けだ。目を逸らしたら負けだ。じっと見つめると、ドラ公の青白い顔はみるみる赤く染まっていった。
「目、逸らすなよ」
「なに……」
「こっち見ろって」
「やだよ」
「なんで」
「なんでも」
「……なあ、ドラ公、俺さ、お前のこと」
ドラ公が息を飲む。赤い瞳が向けられる。
これからまた一つ、俺は不自由になる。いい、これで。これでいい。覚悟を決めると、俺は一段と深く息を吸い込んだ。
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